運動が脳を育てる?─神経新生とトレーニングの深い関係

かつて脳神経科学の世界では、「成体の脳では新たな神経細胞は生まれない」というのが常識とされていました。20世紀初頭、スペインの神経学者ラモン・イ・カハールが確立したニューロン説は、神経細胞の固定性を強調し、それはまるで決まり文句のように語られてきました。しかし1960年代、ジョセフ・アルトマンらの発見によりその“常識”は静かに崩れはじめます。成体の脳──特に学習や記憶に深く関与する海馬という部位で、新たな神経細胞が生まれているというのです。

この「神経新生」は脳の可塑性の象徴ともいえる現象です。そして注目すべきはこの神経新生が運動、つまりトレーニングによって促進されるという研究が相次いで報告されている点にあります。近年では「運動は身体だけでなく、脳の健康にも不可欠である」という認識が、科学的にも裏付けられつつあるのです。とりわけ、有酸素運動の継続が海馬の神経新生を活性化させることが明らかになっています。マウスを回し車に入れて自発的に走らせる実験では、走らなかった対照群と比較して、海馬の歯状回という領域で新たに生まれたニューロンの数が明らかに増加していました。これらのニューロンは単に生まれるだけでなく、既存の神経回路と結びつき、記憶や学習能力に寄与すると考えられています。

では、運動はどのような仕組みで神経新生を後押しするのでしょうか? そのメカニズムは大きく分けて二つに分類されます。一つは血液中を流れる因子の作用、もう一つは脳内で産生される因子の影響です。

まず血液由来因子として重要なのが、インスリン様成長因子1(IGF-1)と血管内皮細胞増殖因子(VEGF)です。IGF-1は肝臓や骨格筋で産生され、加齢により減少しますが、この物質が海馬に届くことで、神経前駆細胞の増殖や分化を助け、結果として神経新生を促進します。一方のVEGFはもともと血管新生に関与する因子として知られていましたが、脳内でも神経細胞の形成をサポートすることがわかっています。興味深いのは、これらの因子がただ増えるだけでなく、運動によって脳への血流が増すことにより、より多くが海馬に運ばれるという点です。つまり、運動は供給ラインを拡張する役割も果たしているのです。

もう一つの要素が、脳由来神経栄養因子(BDNF)です。これは神経細胞自身が分泌するタンパク質で、神経の成長、分化、シナプス可塑性に大きく関与しています。BDNFのレベルは運動後に上昇し、それが神経新生を直接的に後押しするのです。たとえば、ラットを用いた研究では、運動によってBDNFが急増し、それが新たなニューロンの生存率を高めることが示されています。さらにBDNFは記憶の固定化とも関係が深く、運動後の学習効率の向上ともリンクしていると考えられています。

さらに最近では、運動によって脳血流そのものが変化することも明らかになってきました。以前は、運動中には筋肉や皮膚など、身体に血液が優先的に送られるため、脳の血流は一定もしくは低下するという考えが主流でした。しかし、最新の研究では、海馬を含む一部の脳領域ではむしろ血流が増加することが示されています。特に歯状回での血流増加は、前述のIGF-1やVEGFがより多く運ばれる下地を整えるものであり、神経新生の最適な環境を形成する要因の一つとなっています。

こうして見ると、運動は単なる筋肉や心肺機能の強化にとどまらず、脳を“再構築”する力を持っていることがわかります。実際、うつ病の改善や認知症の予防といった精神神経疾患に対しても、運動が有効である理由の一端は、この神経新生にあると考えられています。神経細胞が新たに生まれ、それがネットワークに組み込まれることで、感情や認知の回路が強化される。まさに、動くことが考える力そのものを支えるのです。

現代人はデジタル機器の普及によって座りがちで、運動不足が深刻化しています。しかし、脳を若く保ち、柔軟な思考を維持するためには、日々のトレーニングこそが最良の“脳活”となるのかもしれません。ジムでのランニングマシンの一歩一歩が、新たな神経細胞を育て、記憶の回路を耕し、心を明るくする。そんな未来像が、科学によって裏付けられてきているのです。

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