「暗黙知」と「勘」

人間が五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)および「運動」「平衡」「内臓」の各感覚を通して誕生して以来、今の瞬間まで習得し身体に蓄積保有している知識を「内面知」(=内面化知識)と呼ぶことがあります。
現在では「感覚」「知覚」「認知」の区別をしないで、これら全体を「認知」の連続帯として捉えることが多いようです。

「情報知」と「経験知」


人間が習得する知識には、大きく分けて「自分が体験はしないものの主として視覚または聴覚を通じて言語などの記号を介して習得する知識」と「自分の感覚を通じ実際に体験して習得する知識」の2種類があります。
前者は「情報知」と呼ばれ、後者は「経験知」または「身体知」と呼ばれます。
例えば、ラジオやテレビ、インタ ーネットや人の話などで情報として知り得た知識は「情報知」になります。
また、コーヒーを見たことも飲んだこともない人が「コーヒー豆を煎って輓き粉としたものを湯で浸出した褐色の飲料。香気と苦みがある」などと知り得た知識も「情報知」です。
一方、このコーヒーを実際に見て試しに飲んで得た知識、あるいは実際に自転車の乗り方を練習し自分で乗れるようになって身体が覚えた知識が「経験知」になります。

身体内の記憶として自分で身に付け、かつ他人に伝えることができないほどに発達したものが「暗黙知」となり、これがいわゆる「勘」と呼ばれる。


技能職の現場ではよくあるかもしれませんが、例えば職人が自分の技能をお弟子さんに伝えようとするときは、自分の技能についてのマニュアルを用意し、口頭による補足の説明を追加し,さらに必要に応じて見様見真似で伝えることになるかと思います。
いわゆる「マニュアル」と「口頭による補足説明」により伝わる知識は「表出伝達可能知」、「見様見真似の伝達」で伝わる知識は「表出不可能だが伝達可能知」と考えられます。
そして、この2つを持ってしてもなお、どうしても伝えることができない知識、これがすなわち「暗黙知」と呼ばれます。
「マニュアル」「口頭による補足説明」「見様見真似の伝達」が身体内の記憶として自分で身に付け、かつ他人に伝えることができないほどに発達したものが「暗黙知」となり、これがいわゆる「勘」と呼ばれるような要素になっていきます。

言葉にはできない、当然意識にもあがらない「勘」=「暗黙知」がその間には存在する。


したがってこの「暗黙知」は単なる知識とはまた違ったものになります。
「暗黙知」=「勘」は、生きた人間の身体の中にあり「表出伝達不可能」なもの。
確かに「勘」や「コツ」を伝えるのって言語化するのは難しいですし、相手に伝えるのが難しいことって多いかと思います。
要素還元的な話をすれば、諸細目を統合し全体を感知し理解することができますが、結局のところ人間の様々な活動を発現または達成する時には、本人が無意識の状態で黒子のように表に現われず裏から支える演出家として働くことが多いもの。
つまりは、1つ1つの要素をうまく関連付け穴埋めして補ってくれる、言葉にはできない、当然意識にもあがらない「勘」=「暗黙知」がその間には存在し、全体をうまく一つに統合してくれているということがごく自然に行われているということです。

結局のところ選手個人が独自に習得する「勘」=「暗黙知」をどう育むかが大切。


「暗黙知」は通常の認知の枠組みを超え、直接他人に伝達することは不可能な要素であり、また個人が独自に習得する独特な知識であると考えられています。
この「勘」に当たる「暗黙知」は、一般的には他人と共有しているかどうかを確認することは難しいと考えられています。
スポーツの現場で動作を教えるときも、「こうやろう」という動感を教えることはできても、その動感の「勘」が指導者と選手で一致しているかどうかは確認できないですよね。
コーチングの中ではその動感を教えるわけではなく、選手側が動感を磨けるような意識付けを行うことが重要であり、結局のところ選手個人が独自に習得する「勘」=「暗黙知」をどう育むかが大切なのではないでしょうか。

哲学者のランガーは「人間の直接体験の世界は、「感覚」という大海である。それは果てしなく、そして深い。そしてそれは、個々の人間の内部にあって第三者には伺い知ることのできない世界である。その世界の一部を我々人間は言語にして、外に向かって表現する。しかし、そのように表現できる部分は「感覚」の大海に比べれば小さな島のようなものでしかない」と言っています。
コーチングの中で言語化できているものというのは、私たちの感覚世界のほんの一部でしかないことを表現したものであり、言語化できない「暗黙知」の世界にこそ動作の本質があるのかもしれませんね。

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