人間の脳は生まれた瞬間から驚くほど高度な準備を整えています。新生児の脳の重さはおよそ400グラムであり、これは成人の脳(約1300〜1400グラム)の約1/4程度に相当します。しかし、生後1年間で急激な成長を見せ、1歳でおよそ900グラム、3歳で1000グラムに達します。この時点で体重の約10%を脳が占めていることは、脳の発達がいかに優先されているかを示しています。
生まれたときから脳にはすでに約1000億個の神経細胞(ニューロン)が存在するとされていますが、この時点で神経ネットワークが成熟しているわけではありません。成人と比較して神経細胞同士の接続(シナプス)の形成や神経線維を覆う髄鞘の発達が未熟であるため、情報伝達の効率が低い状態です。この髄鞘化は神経インパルスの伝導速度を高める絶縁体のような役割を果たし、動作や思考のスムーズさに関与しています。基本的な運動機能に関わる部位の髄鞘化はおおむね3歳ごろまでに完成しますが、大脳皮質の高次機能を担う領域は20歳ごろまで発達が続くことが知られています。
赤ちゃんの神経発達は下位脳幹から始まります。生後すぐは延髄や橋の機能が優位であり、空腹を感じた際に乳首を探して吸うといった原始反射が観察されます。これは生存に直結する本能的な反応であり、脳の中でも生命維持に必要な領域が最初に機能することを示しています。生後4ヶ月以降になると中脳が発達し、立ち直り反射(体を傾けた際に姿勢を正す反応)が見られるようになります。さらに、6ヶ月以降には大脳皮質が発達しはじめ、平衡反応と呼ばれる高度な姿勢制御が可能となっていきます。
こうした神経発達に伴って、赤ちゃんは自発的に周囲の世界と関わり、体験を通して学習していきます。これは環境との相互作用を通じたシナプスの刈り込みと強化、すなわちシナプス可塑性のプロセスです。使用頻度の高い神経回路は強化され、不要な回路は自然に淘汰されていきます。この時期における適切な感覚刺激や運動体験は、後の発達を大きく左右するため非常に重要です。
記憶について考えると、多くの人が3歳以前の記憶を持っていないか、断片的にしか覚えていないという現象があります。これは前頭連合野や前頭頂頭野、側頭前合野といった長期記憶や自己意識に関与する大脳皮質領域の髄鞘化が3歳以降に本格化するためと説明されます。このため、乳児期の出来事が長期的な明確な記憶として保持されにくいのは自然なことです。
また生まれたばかりの赤ちゃんには、生後に出会うであろうあらゆる刺激に備える“神経の鋳型”が備わっており、その中でも特に母親の声や顔に対して強い反応を示します。生後わずか5日ほどで、赤ちゃんは他者とは異なる母親のにおいや声にだけ特別な反応を示すことが観察されています。これは、母親との愛着形成の基盤であり、赤ちゃんと母親のあいだに見られる「母子相互作用(mother-infant interaction)」の始まりを意味します。
この母子相互作用は、赤ちゃんの社会性や情動の発達にも深く関わっています。たとえば、母親が笑いかければ赤ちゃんも笑い返し、泣けば母親が抱き上げるというように、互いの行動が相手の反応を引き出す連鎖が形成されます。これにより赤ちゃんは安心感や一貫した関係性を学び、自らの存在や感情を認識していくのです。心理学者のジョン・ボウルビィが提唱した愛着理論においても、こうした初期の安定した関係性が、将来的な人間関係やストレス耐性の基盤となることが示唆されています。
このように、人間の脳は出生後も長期間にわたってダイナミックに発達し続け、その過程で環境との関わりや人間関係が極めて重要な役割を果たします。とくに母子の相互作用は、赤ちゃんの脳を外界に開き、感覚・運動・情動の各機能を連携させるための出発点といえるでしょう。生まれて間もない時期に適切な関わりと環境が与えられることは、その後の人生における発達の礎を築く重要な要素であることは疑いありません。